
豊村喜三郎の功績と
津屋崎との関わり
Kisaburo’s Achievements and
His Relationship with Tsuyazaki-Machi
幕末に生を受けた豊村喜三郎は、13歳で修行に出た志の高い少年でした。
28歳で津屋崎の地に酒造業を創業。
その後の奮闘により、九州一の醸造量を誇るまでに発展。
社会事業にも尽力し、明治から大正にかけての津屋崎の発展に大きく貢献しました。
喜三郎の生い立ち
初代豊村喜三郎は、1847年江戸時代末期に、新宮浦で庄屋を務め、魚問屋、酒造業を営む豊村喜右衛門の次男として誕生しました。ところが12歳の時、父親が他界します。叔父の後見により18歳の兄が家督を継ぎますが、家業が傾き始めます。13歳の時、このままではいけないと、将来に備え、自ら望んで母と兄の許しを得て、神湊の永嶋へ修行に出ました。その際自ら単身で店に赴き奉公のことを相談し、住み込んだのだといいます。永嶋では丁稚として使い走り、掃除、店務の手伝い、樽の運搬と周りが舌を巻くほどの動きだったということです。

青年時代から豊村酒造創業まで
17歳で兄の求めにより家業の手伝いに生家に戻ると、20歳の時、自ら乞うて醸造部門に移りました。24歳の時、博多で幕末に一代で財を成し、酒造業を営む堺宗平の三女サクと結婚して、本家の近くに分家をしました。やがて喜三郎は、津屋崎の「紅粉屋(べにや)」が酒造業をやめ、他に譲り渡すという噂を耳にします。紅粉屋の佐治家は、黒田藩時代から津屋崎では並ぶものもないほどの名家でした。秘かに期するところがあった喜三郎は、ちょうどこの時期他にも数件近隣で、酒造業をやめるという噂がありましたが、津屋崎が将来的にも有望の地と定めて、この機を逃さず乗り出すことを決意しました。しかし、兄に相談したところ、家の酒造業を外されては困るとのことで許しが出ず、かといって決心は変わらず、兄からの助力もないまま、明治7年8月25日、単身で津屋崎に赴くと、紅粉屋(佐治家)との間に家屋敷、醸造設備、酒造免許を借り受ける契約を交わしたのです。喜三郎28歳、津屋崎村においての豊村酒造の創業でした。
当時の津屋崎は、筑前最大の浦で津屋崎千軒と繁栄を誇っていました。海運と漁業からなる浦でしたが、この地はまた製塩でも有名で、その面積は50町歩にも及び九州一の規模でした。当時このような繁栄の地を喜三郎が創業の場所として選んだことは、元来の商才と先見の明があったと思います。
喜三郎の奮闘ぶり
喜三郎は、とにかく、僅かな資金と、奔走して、月2部の高利で借りた金とで、農家の米を買って、清酒醸造を始めました。同時に、米、干鰯(「ほしか」は鰯を浜で干した肥料)、材木、たばこ等、儲かりそうな物を仕入れては売り、業務に励んだといいます。妻子は新宮に置いて単身で津屋崎に通っていましたから、多忙な毎日だったと思われます。夜10時に店を閉めると三里(12キロ)の道程の新宮に帰る。売り上げのよかった日には、生鯛を買い、母親の土産にしたそうです。新宮に帰る途中には、花鶴川があります。満潮の際は、泳がなければ渡れません。川岸で裸になり、着物、鯛、売上金を頭上に結わえて泳ぎ渡りました。迂回しては時間がかかると、冬でも泳ぎ切ったそうです。

喜三郎の隆盛期
明治14年、九州日報(現西日本新聞)の「福岡県実業家十傑」に3日間にわたり連載された記事によると、キツネが現れ、ついてくるので、鯛が欲しいのかと与えると、毎夜のように現れ、鯛のほかに、キツネ用に魚を買って帰ったとの逸話の他、2人組の強盗に襲われたが、喜三郎は体格も良く、力もあったので撃退したなどの話が載っています。
実に3年もの間、新宮と津屋崎を往復し、明治9年、新宮を引き払って津屋崎の人となったのです。
翌年西南戦争が勃発、九州の酒類の流通が混乱した機に、独自の流通網を築き、各地を奔走して清酒を買い入れ販路を拡大、大いに利益を得ました。その年、現存する酒蔵で一番古い蔵を建てています。
その後明治18年、占部五平、占部田平とともに、干鰯、板屋具などを扱う「三友社」設立、肥料商としても業務を拡大しました。

明治20年この地に7軒の家を買い取り、店舗棟を建設、喜三郎41歳でした。尚、ここの建設は、博多奥の堂の棟梁大工、山崎清蔵との記録があります。翌明治21年、津屋崎の酒蔵「吉枡屋」を買収、2か所で醸造を開始します。明治27年紅粉屋の免許鑑札が、豊村酒造に譲渡されると、明治28年には、晴れて豊村喜三郎の名で、造石高が発表され九州で唯一、最上段幕の内に格付けされました。

これは掛け軸に描かれた明治30年頃の喜三郎です。四斗樽を天秤棒で担ぎ船に積み込む様子が描かれています。四斗樽は酒だけで72キロですからそれを2個、160キロ以上の重さであったと思われます。船は万豊丸で、この他にも和船を有し、海上の交易も試みたといいます。


一方で、喜三郎は郵便電信局を創設し、宗像銀行も起こしました。また、福間駅から宮地嶽神社を経て津屋崎までの馬車鉄道を敷設するなど、私費を投じて津屋崎での社会事業の発展に貢献しました。
切妻屋根のレンガづくりの建物は所有地に残る塩倉庫跡で、当時製塩会社取締も務めるなどしていたことを窺い知ることができます。

大正8年には、福間町との境に、敷地3千坪、建坪600坪の第2工場を造りました。
ちなみに、第2工場は、第2次世界大戦で、米の統制により閉鎖、その後昭和40年代に落雷で焼失しました。
一人娘ジュウの夫である2代目の伊平が若くしてなくなりましたので、大正12年に孫の3代目、豊村喜三郎に家督を譲り、大正14年79歳でその一生を終えました。初代より薫陶を受け、3代目に引き継がれた醸造業は、酒を筑豊、北九州、別府などに販売し、隆盛を極めました。

[ 歴史・沿革 ]
- 明治7年(1874)初代豊村喜三郎、酒造業創業
- 明治10年(1877)現在地に酒蔵を建設
- 明治20年(1887)店舗棟を建設
- 明治25年(1892)造石高が4千石に及び九州一の醸造量となる
- 明治28年(1895)全国酒造家番付で、九州で唯一幕ノ内に格付けされる
- 大正8年(1919)宮司に敷地3,000坪建坪600坪の第2工場落成
- 昭和3年(1928)昭和天皇ご即位の大礼に豊盛を献上
- 昭和6年(1931)台風による煉瓦造り煙突倒壊により、現在の煙突を建設
- 昭和16年(1941)第2次世界大戦による米の統制で第2工場閉鎖
- 昭和28年(1953)法人成 豊村酒造有限会社