かつて津屋崎千軒と呼ばれた港町に、
明々と灯した酒づくりの誇り。
幾多の時を重ね紡いだ、
歴史の一滴をここに。

豊村酒造とは

かつて塩田の積出港として栄えた津屋崎の地に、明治7(1874)年、豊村喜三郎は豊村酒造を創業しました。津屋崎は近世から近代にかけて「津屋崎千軒」と呼ばれるほど賑わい、その中心部に位置する豊村酒造は、明治28年の全国酒造家番付で九州で唯一の幕の内に名を連ねました。

豊村酒造で醸造する清酒「豊盛(とよさかり)」は、北九州市の工業地帯や筑豊炭田、別府温泉等の観光地へも出荷され、今日まで宮地嶽神社への奉納が続く、地域に親しまれている銘酒です。

酒蔵や屋敷の土間の梁には、海水に漬けた松の塩木がふんだんに使われ、訪れた人がため息をつくほど。人々が驚くような「見得の梁(みえのはり)」を据えた分、それに見合うだけの酒をつくろうとした喜三郎の精神が、代々受け継がれてきました。

そして、国の重要文化財に指定された豊村酒造旧醸造場施設。明治期に福岡県下で最大級の醸造量を誇り、かつ明治から大正にかけて整備された姿をほぼそのまま残し、日本の酒づくりの歴史と価値を語りかけています。

豊村喜三郎の功績と
津屋崎との関わり

酒造・魚問屋を営む豊村喜右衛門の次男として新宮村に生まれた喜三郎は、13歳で父を亡くすと、自ら大志を抱いて、修行を重ね、明治7年、単身で津屋崎に赴き、豊村酒造を創業しました。やがて九州一の造石高となり、酒どころ灘・伏見にまで名を馳せる醸造家として知られるようになると、津屋崎馬車鉄道の施設等社会事業の発展にも貢献しました。

酒づくりの歴史を支えたものたち

日本の国酒である日本酒。日本酒の起源は約2,000年前と言われており、深く長い歴史を持っています。その長い歴史の中で技術は進歩し現在の日本酒に至りました。

今や世界に名をとどろかせるようになりましたが、その作り方や歴史を支えたものにはどのようなものがあったのでしょうか。豊村酒造旧醸造場施設に残された設備から酒づくりの工程を探求してみましょう。

酒ラベルの変遷

酒の魅力は、その味わいだけでなく、瓶を彩るラベルにも宿ります。当サイトでは、豊盛をはじめとした数々の銘柄をアーカイブ。目で楽しみ、心で味わう、新しい日本酒の世界をお楽しみください。

施設のご案内

Information

明治の始まりとともに、
津屋崎の地に夢を託した豊村喜三郎。
最初の二棟の蔵が建ち、
そして住まいを構えた頃から、
豊村の酒づくりは九州一の規模へと
成長していきました。
今も残る蔵や建物たちは、150年の時を超えて、
当時の酒づくりの様子を私たちに
語り継いでいます。

※図上の番号または各項目タップで詳細内容が開きます

附 煙突 1基えんとつ

昭和5(1930)年建築着手

完成時期は不明ですが、昭和5年(1930)に建設着手されました。基礎は直径9尺(約5.4m)の8角形で、根入れが約1.0m、基礎厚みは約400㎜です。捨栗石1尺2寸(約360㎜)でモルタル5寸(約150㎜)打ちの上に5分(約15㎜)の丸鉄筋を組んでいます。

煙道は北側の釜床(酒瓶煮沸用)(現在なし)と南側の釜床(蒸米用)へ延びていますが、北側煙道の開口はコンクリートで塞いでいます。躯体表面はコンクリート打ち放し仕上げで、木製板型枠を組み、約1.1mごとにコンクリートを打設しています。主筋・帯筋は丸釘を使用しています。

煙突頂部には柱頭飾りとして2段のつばの下に珠状突起、櫛状溝、横帯を施しています。煙突北側には管理用の鉄製はしご、南側には避雷針の先端痕と導線、留め具が取り付いています。

槽倉ふなぐら

大正3(1914)年建築

この建物は、醪を圧搾して原酒を採取する工程を担っています。建築面積は160.34㎡で、一部2階建て、北面は入母屋造、南面は切妻造、桟瓦葺です。北面には金属板葺の庇を設けて、桶干場としています。東面と南面の腰壁は切石積とし、小屋組には3重梁を架けています。内部は白漆喰塗に腰板壁としていますが、それ以外の仕上げは酒蔵と同様です。

試験室しけんしつ

明治後期建築(推定)、昭和14(1939)年改修

この建物は、古酒倉(南)の北西隅に食い込むように建てられており、酛や麹、清酒の管理のために、酒精分や日本酒度の分析、利酒などを行うために利用されました。建築面積は40.47㎡で、2階建て、切妻造、桟瓦葺です。西面には下屋が附属しています。内部は、1階を試験室、杜氏の待機場所、物置の3室に分けており、2階は1室になっています。

古酒倉(南)こしゅぐら みなみ

明治10(1877~1886)年代建築

この建物は、火入れをした酒を貯蔵するためのものです。建築面積は158.38㎡で、2階建て、東西棟切妻造、桟瓦葺です。小屋組には曲がった丸太の梁を利用し、和小屋と登梁を交互に架けています。古酒倉(南)の東面と古酒倉(北)の西面北半分の間には間仕切りを設けず、1室となっており、北面に出入口があります。仕上げなどは麹室と同じです。

作業場さぎょうば

大正12(1923)年建築、昭和48(1973)年改修

この建物は、出荷前の酒の瓶詰めなどを行い、屋根の上は桶干場として利用されました。建築面積は244.57㎡で、平屋建て、傾斜の緩い鉄板葺です。独立柱を東西方向に2列立て、南北方向に梁を渡し、梁の端は古酒倉(北)および主屋に差しかけています。

古酒倉(北)こしゅぐら きた

明治10(1877~1886)年代建築

この建物は、火入れをした酒を貯蔵するためのものです。建築面積は91.64㎡で、2階建て、東西棟切妻造、桟瓦葺です。小屋組には曲がった丸太の梁を利用し、和小屋と登梁を交互に架けています。古酒倉(南)の東面と古酒倉(北)の西面北半分の間には間仕切りを設けず、1室となっており、西面に出入口があります。外壁が波板鉄板張である以外は、仕上げなどは麹室と同じです。

主屋おもや

明治 20(1887)年建築

この町家は、店舗兼住居として明治20(1887)年に建てられました。大工棟梁は博多櫛田前町の山崎清蔵です。明治40年代に背面側、大正期には土間及び事務室周り、昭和初期に応接室周りが改修されました。建築面積は226.90㎡で、2階建、入母屋造平入、桟瓦葺です。東面に下屋が付属しています。基礎は外周が布石、内部は礎石の上に柱を立て、2階床高を胴差で固めています。土間部背面側は2階上部に曲がった丸太の梁を縦横に4段積んで豪壮な梁組を見せ、その上に和小屋を組み、表側は登梁を入れています。

これは大規模な町家であり、土間上部に吹き抜けを設けて曲がった丸太を縦横に積み重ねた梁組を現わす構成や、取次を吹き抜けとして2階に高欄を廻して神棚(山崎朝雲作)を祀る形式が、福岡市周辺の町家建築の特徴をよく現わしています。同時に、取次はその良質な施工と仕上げが意匠的な見せ場ともなっています。

麹室こうじむろ

大正3(1914)年建築

これは蒸した米から麹造りを行う建物です。大正3(1914)年に古家を再用して建築されました。

建築面積は75.69㎡で、2階建、北面寄棟造、南面切妻造の桟瓦葺です。南隣の酒庫との間は間仕切りを設けず、接続しています。基礎は布石で、小屋組は曲がり材の梁を3段に重ねています。

外壁は白漆喰で軒裏まで塗り込めており、腰壁を下見板張、その上部を竪板張としています。内部は各階1室で、室は1階を白漆喰塗の大壁、2階を真壁造で中塗仕上としています。床は1階をモルタル仕上土間、2階を板張としています。

附 塀 1棟へい

大正6(1917)年建築(推定)

この腰板塀は、麹室の外壁腰壁簓子下見板張りから続くものであり、建築年代は不詳ですが、大正6年(1917年)に本座敷棟が新築された際に合わせて設置されたと考えられています。

木製の支柱の頭部を棟木で繋ぎ、腕木を出して桟瓦葺の笠屋根を載せています。柱間には真壁土壁を造り、腰板は大壁で竪板張りにし、軒下は鼠漆喰で上塗り仕上げとしています。

本座敷ほんざしき

大正6(1917)年建築

建築面積は92.10㎡で、平屋建、北面入母屋造、南面切妻造、桟瓦葺です。北・東面に下屋を廻し、北面西端に便所が突出しています。主屋との接続部は2階建で片流れ屋根をかけています。平面は10畳2室続きの座敷で、北側を主座敷とし、北・東縁に内縁を廻しています。主座敷西面に床と床脇、北面に付書院を備え、次の間の南面に仏壇を置いています。座敷は2室とも長押を廻し、天井は棹縁天井です。建具は2室の間は筬欄間と襖を入れ、他は腰障子を入れています。縁側は内法に掃き出しのガラス戸を建てて内法上は無双窓を入れ、天井は化粧屋根裏としています。

主座敷の床は畳床とし、床柱はスギの絞り丸太、床框は黒漆塗としています。床脇には天袋と棚、地袋を備え、地板はケヤキの1枚板を用いています。付書院は柳障子を建て、透彫の欄間を入れ、全体を透漆仕上げとしています。これは当家で最も格の高い座敷です。大工は吉村重兵衛です。

納戸蔵なんどぐら

明治 27(1894)年建築、大正6(1917)年現地に曳家

これは家財道具を納める蔵です。土蔵造で、建築面積は33.88㎡です。2階建、地下1階、切妻造、桟瓦葺となっています。北面に庇が付いており、庇の西半は壁で囲まれています。庇東面から本座敷に向かって切妻造、吹き放ちの渡廊下が付いています。

地下室は煉瓦造とし、その上に土蔵を建てています。小屋組は和小屋で、外壁は白漆喰塗に腰壁を海鼠壁としています。内部は各階1室となっており、北面に出入口を開いて石段を付しています。その西隣の下屋内部に地下への階段を設けています。

酒蔵さかぐら

明治43(1910)年建築

これは醸造後の酒を仮置きまたは貯蔵していた建物で、北面及び南面に間仕切りを設けていません。建築面積は173.28㎡で、2階建、切妻造、桟瓦葺です。東面に金属板葺の庇を付け、桶干場としています。

各階1室となっており、1階の西面南端に出入口を開き、東面南側は吹き放ちとしています。外部の仕上は麹室と同様としています。内部の仕上は、1階も真壁造の中塗仕上げとする他は、麹室と同様としています。

釜場かまば

明治 33(1900)年建築、大正3(1914)年改修

これは洗米・浸水した酒米を蒸す工程と、酒の火入れを行っていた建物です。建築面積は78.23㎡で、2階建、切妻造、桟瓦葺となっています。棟を蒸気出としており、東面に金属板葺の庇を付けて桶干場としています。

1階に煉瓦で大口径2口の釜を造っています。作業庭の地下に煙道を通して、作業庭の東端に煙突を建てています。仕上げは酒蔵と同様です。

仕込蔵及び酛取場 しこみぐらおよびもととりば

仕込蔵:大正3(1914)年建築、
酛取場:大正7(1918)年、昭和4(1929)年改修

大正3年(1914年)に仕込蔵が建築され、同7年(1918年)に酛取場が増築され、昭和4年(1929年)に地下室が設けられました。酛取場では、蒸米・麹・水で酵母を培養して酛(酒母)をつくり、仕込蔵では酛(酒母)・麹・蒸米・水で醪を仕込みます。建築面積は540.05㎡、2階建てで、北面は切妻造、南面は入母屋造です。東面には附属する下屋があり、これを酛取場として全体を桟瓦葺とし、北面には金属板葺の庇を付けて桶干場としています。基礎は切石で、梁間に2筋の独立柱を立て並べ、小屋組は中央間に3重梁をかけ、両脇間は軒梁から独立性に登梁を差しかけ、広大な空間を支えています。1階は1室で、2階は北東隅に小部屋があります。仕上げは、西・南面の外壁上部に竪板張をしないこと以外は、酒蔵と同様です。酛取場は、1階の床高を約1m上げて地下室が設けられています。地下室は煉瓦造外壁の内側をモルタル塗りとし、その内側に鉄骨を立ててコンクリート造の1階床板を支えます。北面は槽蔵との間に間仕切りを設けず、地下室への階段は槽倉南西隅に設けられています。

ご利用案内

Information

■営業時間
10:00〜16:00(最終入場15:30)
■休館日
夏季・年末年始の他不定休あり
■団体利用について
10名以上の場合は下記お問い合わせ先より事前にお申込み下さい。
■ガイドについて
スタッフがお客様に同行して豊村喜三郎の生涯や各施設の解説をいたします。ガイドをご希望される場合は事前にご相談下さい。
■取材撮影等について
取材及びそれに伴う撮影等がある場合には事前にご相談下さい。

■ご見学の際のお願い

  • 館内は、全面禁煙です。
  • 「立入禁止」や柵で囲んである場所へは立ち入らないでください。
  • 館内及び敷地内の撮影は撮影者本人が個人的に使用する場合に限り可能です。
    ※その他の目的の撮影は申請が必要です。
  • 写真、映像の撮影や携帯電話の通話の際は周囲の状況にご配慮ください。
  • 原則としてペットを連れての入館はご遠慮ください。
    ※補助犬(盲導犬、聴導犬、介護犬)を伴っての入館は可能です。
  • 館内及び敷地内におけるケガ及び事故、盗難、お客様同士のトラブルに関して、当館は一切責任を負いかねます。

アクセス

Access

豊村酒造旧醸造場施設
〒811-3304 福岡県福津市津屋崎4-14-18
TEL:0940-52-0001

■車でお越しの方

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・福岡市方面から九州自動車道古賀ICを降りて約20分
・北九州市方面から九州自動車道若宮ICを降りて約30分
[一般道]
・福岡市天神から国道3号線で約50分
・北九州市小倉から国道3号線で約70分

■電車・バスでお越しの方

JR鹿児島本線 福間駅下車
福間駅より西鉄バス「津屋崎千軒・なごみ入口」から徒歩3分

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